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押し寄せる濁流、命だけは助かる

伊勢湾台風の6年前、1953年(昭和28年)に大きな被害をもたらした台風第13号が来た時は、11歳で小学5年生だった。当時は松阪市の大口町 に住んでいて、第四小学校に通っていた。町は風光明媚で歴史のある港があり、海はきれいでいつも泳いで遊んでいた。大口町は、当時100戸くらいの家があ る集落で、建物はみんな木造のかわらぶきだった。

13号台風が来たのは9月25日だった。23日から25日まで、百 姓さんがお米の収穫を終えて一段落すると行われる祭りが、近くの加世智神社であった。24日からよく雨が降っていて、止むことのない大変な雨だなあと言い ながら祭りをしていた。兄と姉は働きに出ていて、家にはいなかった。台風が来た25日の午後3時ごろだったと思う。父や母と寿司を食べながらくつろいでい たら、近所の農家が雨がっぱを着て、牛や馬を町の方へ誘導している。これはちょっとおかしいということで、父が裏木戸を開けたらもう遅かった。水がばっぱ かばっぱか庭へ入っており、すでに30センチくらい浸かり、家の中にも攻め寄せ、しぶきをあげて敷居を乗り越えてきた。父は、私を背に乗せひもでくくり、 母の手を取って、取る物も取り敢えず逃げた。私の町は半農半漁の町で、漁業をしている人は「べか」と呼んでいた小舟があり、それに乗って避難していたが、 私の家は農家でも漁家でもないので、川沿いを小学校の方に向かってひたすら歩いて逃げた。

畑が一面に広がる最勝寺と いうお寺の所まで出たら、道と畑の区別がつかないくらい水が来ていた。横を見ると牛と馬が泳いで、べかで避難している人もいる。濁流が押し寄せて、材木が どっとこどっとこ流れてくる。当たったら大変なので、除けながらほうほうの体で水の来ない小学校まで避難し、一夜を明かした。

翌 朝、家に帰ったらもう水は引いていたが大変だった。流れて来た水の高さが、畳の上から1メートルくらいあったのではないか。仏壇の位牌が浮くか浮かないか くらいの所まで水が来て、壁が全部ずり落ちていた。ほかの家も壁は落ちて、家だけが残っていた。祭りだったので、新品に替えていた畳も全部だめになり、み んな捨てた。私の教科書も流され、後から購入したのを覚えている。逃げる時に、飼っていた愛犬の鎖をはずすことができなかったが、動物というのは賢いもの で、戸板の上に乗って助かっていた。当時は便所も汲み取り式だったので消毒を繰り返し、毛布のほか、おにぎりを毎日配給してもらった。このような生活が 1ヶ月くらい続き、復旧の作業に追われた。当時は水道がまだなく、毎日井戸から水をくんで、みんなで掃除をした。

命 だけは助かった。家の半分は水に浸かったが、残ったのが不思議なくらいだった。1軒だけ、河口に近い今のセントラル硝子の工場の所にあった家が海に流され た。住んでいた旦那さんは、体が悪くて療養していた。その旦那さんの首を奥さんが抱えていたが、旦那さんを放してしまい、海へ流されてしまった。奥さんだ けは助かった。その翌日だったと思うが、警防団が来て、流された旦那さんを探したがなかなか見つからず、1週間後に遺体が見つかったことを覚えている。あ んなにも情報がない時代に、船で逃げたり走って逃げたり、一軒だけ亡くなられた方がいたが、今考えるとそのほかの人が助かっただけでも、よかったと思う。

伊 勢湾台風の時は、津工業高校の確か1年生だった。津の方は、高校も水に浸かり、その後の掃除で大変だった。松阪は浸水はなかったが、風が強かった。兄が伊 勢で仕事をしており、家までたどり着いたが車が浮いたと言っていた。兄は表へは絶対に出てはだめだと話し、防災頭巾を私の頭にかぶせてくれた。自分の家の かわらがぱらぱらと、紙切れのように吹き上がっていたのを覚えている。13号台風のときは水が流れたが、その後から三重県では桑名から尾鷲まで護岸工事が 行われ、コンクリートの堤防が出来上がっており、水に対しては助かる安心感があった。伊勢湾台風では風に悩まされた。風が強くて外に出ることができず、家 の中ですくんで一夜を明かしたが、家が飛んでいってしまうのではないかと思った。当時は水道も来ていたはずで、電気も一時停電だったが、すぐに復旧した。

私 も高齢になり、向こう三軒両隣もみんな高齢者の方ばかりになった。日ごろの備えについて、お菓子を持ち寄ってしゃべる会から始めて自治会に反映し、輪を広 げて防災意識を高めていくことが大事だと思う。それと、自分が今住んでいる所の過去にどんな災害があったか、台風や大雨、洪水、地震など、さかのぼって調 べてみることが大切だ。例えば、1498年(明応7年)に起きた明応地震では、ここからずっと南の今の明和町にあった、伊勢湾に面した大淀という村で、家 が1000軒、5000人が流されたという記録が残っている。1891年(明治24年)の濃尾地震のときは、この辺りもかなり揺れて津波が来た。そして、 私が幼かったころの1944年(昭和19年)の東南海地震、その1年後の1945年(昭和20年)の三河地震。このときは家の表に飛び出して、大きなミカ ンの木につかまり立ちすくんだ。こうしたことを記録しているローカルの書物が、日本にはたくさんある。こういう古い記録をたくさん入手して、年月を順に並 べてどんなことがあったか検討してみると、参考になる資料ができるのではないか。松阪だけでなく、県内のそれぞれの地域について収集してまとめれば、防災 の備えに反映できると思う。

こうした過去に起きた災害については、手帳に書き込んでいつも持ち歩いている。そして、 災害についてのテレビ、ラジオなどの情報源には注意を払っている。避難方法も常に確認しておかなければならない。災害にあったときのための防災用品も用意 しているが、日々の備えとしては、まだ足りないものがたくさんある。日ごろから防災訓練に参加することも大事だろう。以前の防災訓練では、近くの神社から 消防署まで、お年寄りをリヤカーに乗せて運んだが、思っていた以上に時間がかかった。実際にやってみて、初めてわかることがある。ここに津波が押し寄せた ときに、私たちが避難する所は第一小学校だが、その体育館に避難できる上限の人数は500人くらいと聞いている。果たして500人が入ることができるの か。そうした訓練もやってみなければならないと思う。

タイトル 昭和34年伊勢湾台風被災証言(松阪市 山口 功)
概要 雨が前日からやむことなく降り続けていた。当日は神社で祭りがあり、家族と15時頃、お寿司を食べたりしてくつろいでいた。そのとき近所の農家さんが、家畜を連れ町の方へ誘導していたのに、父親が気づいた。そして裏の木戸を開けたところ、30cmほど庭が浸水していた。父に背負われ、母と川沿いを歩いて第四小学校まで逃げた。
タイトル2 ショウワ34ネンイセワンタイフウヒサイショウゲン(マツザカシ ヤマグチ イサオ)
概要2 お名前:山口 功
性別:男性
年齢(生年):75歳(2016年2月17日現在)
現住所:松阪市
被災時のお住まい:松阪市大口町
被災時の職業・学校など:松阪市立第4小学校4年生
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 三重県・三重大学 みえ防災・減災センター
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 03月 31日
コンテンツの住所 三重県松阪市大口町
コンテンツの撮影場所 三重県松阪市大口町
タグID 松阪市立第4小学校,床上浸水,13号台風,松阪市,昭和28年(1951) 台風13号,昭和34年(1959) 伊勢湾台風
コンテンツID 伊勢湾台風体験談・証言

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