地震が起こったときは国民学校の 3 年生の教室で、遅めのお昼ご飯を食べていました。

グラツと揺れ始めたとき担任の先生の逃げろの一声で、すぐに防空頭巾をかぶり、教室の前後の入り口から整然と中庭に避難しました。(今と違って机の下に隠れることはしませんでした)

地面が波打っているようで立って歩くのは難しく一時は遣って逃げました。集合場所(クラスによって普段から決まっていた)に集まり全員の無事を確認して、この日は下校となりました。(この頃には昼間毎日空襲警報が発令されていて、教室から逃げることは毎日ありました)

下校途中、屋根瓦の落ちている家はありましたが、家が倒れたり電柱が倒れたりしてはいませんでした。

家に帰ってからもかなり大きな余震が続きました。そのたびに家から飛び出さなければならないので、庭の柿の木の下に物干し竿とむしろで寝るところを作り、布団を持ち込んで 家族で一週間くらいそこで夜は寝ました。(家の中では度々の余震がこわくて寝ていられませんでした。)

停電したかどうかはっきり覚えておりません。当時は電球が2~3 個あるくらいで、おまけに燈火管制であまり使わなかったので記憶にありません。

水は井戸でした。地下の水からポンプまでの管が破損してポンプで水がくめなくなり、バケツと竹で釣瓶を作って水をくみ上げていました。

かまどは破損しなかったので、薪で炊いていましたが、傍にバケツ一杯の水を汲んでおきました。炊いているときに地震がきたらすぐに水をかけて火を消すためです。たしか一度は かけた気がします。この地震は非常に怖かった。70 年経った今でも当時の恐怖心をはっきりと覚えています。

体験した者が体験していない人に伝えるのは、非常に難しいと今までの経験で思います。

しかし、伝えていかなければなりません。 東南海地震を体験して、日々心がけていることを参考までに書いておきます。

1.日ごろから家族で、もし今地震が起きたらどうするか。話し合っておく。私は子供たちは巣立ってしまい妻と二人暮らしですが、食事時、就寝時、テレビを見ている とき、スーパーでの買い物途中のときによく話をします。

2.避難訓練は常日頃から何度も行って、体に覚えさせておく。(空襲警報が発令されるたびに、毎日避難していたのが地震が起きた時に大いに役にたったと思っています。)

3.ライフラインが当時は電気のみです。(しかも電燈が 2-3 個あったのみ)なくなっても全然困りませんでした。いまは電気、水道、ガス、トイレがただちに困ります。最小限、必要な備蓄をしています。保存のきくパンなど、水、お茶、携帯用ガスコンロとボンベ、石油ストーブ、非常用簡易トイレを準備しています。

4.当時は家の中に家具が少なかった。今は家具も多く電気製品も多い。背の高い家具や冷蔵庫には、転倒防止の器具を付けています。また食器戸棚はガラスが割れないようにシートを張り、さらに扉が関かないように金具を付けています。

5.寝室には家具を置いていません。また、一日の多くを過ごす居間にも背の高い家具は置いていません。

6.家から1キロメートル以遠に行くときは(マイカー、電車にかかわらず)普段から飲んでいる薬(5日分)、お茶一本。カロリーメイトー箱、携帯電話を必ず持参するようにしています。

7.万がーにも地震等の災害で意識を失った時のために、写真付きの住民基本台帳カードを作り携帯しています。また、家族の連絡先を書いた用紙も作って一緒に携帯しています。(当時は全員が名前を書いた布を胸に縫い付けていました。)

8.一人一人が『自分の身は自分で守る』という強い意識を持つことが一番減災につながると思います。以上とりとめのないことを記しましたが、少しでもお役に立てば光栄です。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(松阪市 垣本 宗郎)
概要 垣本宗郎(当時8歳)
地震が起こったときは、国民学校の教室で、遅めのお昼ご飯を食べていた。グラッと揺れ始めたとき担任の先生の逃げろの一声で、すぐに防空頭巾をかぶり、教室の前後の入り口から整然と中庭に避難した。地面が波打っているようで立って歩くのは難しく一時は這って逃げた。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(マツサカシ カキモト ムネオ)
概要2 お名前:垣本 宗郎
ご住所:松阪市
発生時にいた場所:花岡国民学校の教室
当時の年齢:8歳 小学3年生
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 垣本 宗郎
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 10月 01日
コンテンツの住所 三重県松阪市嬉野
コンテンツの撮影場所
タグID 花岡国民学校,昭和19年(1944) 東南海地震,松阪市
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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