「5才の記億」

私は、新鹿の湊地区で生まれて、5才の時に大津波に遭いました。昭和19年12月7日。ちょうど昼食後で、私がトイレから出ようと立ち上がったところへ大きなゆれがきました。昔のトイレは、今とは違い、母屋とは別棟にありました。

「容子!容子!はよ、おいで!」すぐ上の姉が呼びますが、びっくりして動けません。姉は、8歳で学校はお昼までだったので、家に帰っていたのでした。ゆっくりと大きくゆれる中を、姉がさけぶように、呼ぶ方へと歩きました。当時は、水道はなくて、共同の井戸から大きな木桶に水を汲んで、天秤棒でかついで運んでいました。そのための木桶が、家の外の棚から転がり落ちてきます。5才の私は、その桶をよけながら歩いて行きました。母は、親戚のお葬式の手伝いで出かけていましたが、1才の妹にお乳をあげるために、ちょうど帰っていました。今から考えると、その日は、5才の私が、妹の子守りをしていたようです。やっとの思いで、いったん母屋に入り、姉の手をつないで表に出ると、近所の人たちもたくさんいて、ワイワイと大声で話しています。大きな「こって牛」が小屋から放されたのか、えらい勢いでお墓のある方角へ走って行きました。母は、1才の妹を背負って、仏さまのものを風呂敷に包んで外に出てきました。そこへ木村さんが来て言いました。「津波がくるぞ!高いところへ逃げよ。」木村さんは、都会から疎開で移り住んだ人でした。戦争中でもあり、警防団員だったので、国防色の服に足にはゲートルを巻いて、靴を履いていました。当時は、ほとんどの人は、下駄か、わら草履でしたが、木村さんは靴を履いていたのを覚えています。周りにいた人々は、我に返ったように顔を見合わせました。地震の時は、竹やぶが安全!和田屋の竹やぶはどうかということになり、和田屋の竹やぶを目指して歩き始めました。チィやんところの前まで来たら、母とチィやんが、「まあ、おそろしのし!」と話し始めたのです。そこへ、警防団の木村さんの、「津波が来るぞ!高いところへ逃げよ!」の声が追ってきて、チィやんも仲間に加わって、走り出しました。和田屋の竹やぶへ逃げるには、湊の川のそばを通っていくのです。河口をふり返ったら、ザワザワザワザワと小さな波が寄せてきていました。竹やぶまで登りきった時、下の方で、ザーッと音がして、その時、「アーッ!!」と大人の人たちが大きな声をあげました。みんなの顔が、私の家の田んぼの方角を向いていて、よく見ると、田んぼは一面水で、田んぼのそばの栗本さんの家の屋根は見えていましたが、水に浸かっていました。子どもだった私は、どのぐらいの時間がたったのかわかりませんが、また、「アッー!!」という声に、みんなの見ている田んぼの方を見ると、あれ程いっぱいの水だけだっととこらが、すごい勢いで水が引いていくのです。

日が暮れて、母方の祖父が、ちょうちんを持って迎えに来てくれました。祖父におんぶしてもらって、山すそにある祖父母と伯父の住む家まで行ったのですが、祖父の背中で眠ってしまったのか、着いた時の記憶がありません。我が家は流されずにすみました。しかし、大人の背丈ほどの海水に浸かり、畳はダメになりました。我が家は、湊川からだいぶ離れていて、流されずにすみましたが、お隣の家は、我が家の方へかたぶいていて、しばらくしてから起こしたのを覚えています。その隣の家から川までの家は、全部流されました。海に近い家も、たくさん流されました。「Kちゃん」のお母さんは、いったん逃げたけれど、米か何かを取りに帰り、家ごと流されていくのを何人か見たと聞きました。

後から、父には、「一番大切なのは命。物を取りに帰ってはいけない。」と何度も聞かされて育ちました。当時、父は、紀州鉱山で守衛をしていました。ちょうど親戚の人が亡くなったこともあってか、家に帰ってくるのに、木本の浜で巡航船を待っていて、地震に遭い、仕方なく山道を歩いて来ました。そのとき、波田須で、「『新鹿は津波で全滅した。』と聞かされてつらかった。」と言っておりました。一番上の姉は、亀山の女子師範学校に行っていましたが、父母と兄と姉2人、妹もいて、7人がしばらく祖父母の家で世話になったのでした。津波でめちゃくちゃになった家の片づけに、父母、兄、姉たちは、毎日出かけていき、そのうちに、やっとむしろを敷いて住めるようになって、私だけ祖父母の家に残されました。祖父母も伯父も、大切にしてくれましたが、夕方になると、淋しくて、「家にかえりたい」とせがんだのでした。

ある日、祖母に手を引かれて、我が家を見に出かけてびっくりしました。道路には、まだこっぱみじんになった木切れがいっぱい。家から出されたどろや木切れ等がうず高く積まれていて、歩くのも難儀です。家の中は、畳はなく、板の間になっていて、寝る部屋にだけ農業用のむしろが敷いてありました。「容子、ばあちゃんのところへ帰ろかね。容子は、ききわけのええ子じゃよって、帰ろかね!」と言われて、山すそにある祖父母の家へ帰ったのでした。その時、川沿いの道をずっと歩くのですが、川のそばには、着物がたたまれた状態で、こずんであり、桃色、赤、紺色、水色など、美しい色のものが目に残っています。そのときは、きれい!!と思ったけれど、海水に浸かった着物だということが、大人になってから気がつきました。祖父母の家に、またしばらくの間、留め置かれたのでした。

警防団の木村さん。

ふだんは忘れているのですが、津波のことを思いだすと、必ず思い出す名前です。木村さんが、高いところへ逃げよ!と列のしんがりになって、「津波が来るぞ!あがれるだけあがれ!」と声かけしてくれたおかげで、多くの人が助かりました。父は、大きくて、ガッチリとした体格だったので、木村さんは、細くて、小柄に思えました。三つ上の姉に手をひかれたときの、「あがれるだけあがれ!」の木村さんの声で助かったと思っています。仮説住宅もたくさん出来ました。今は、仮説住宅と言いますが、当時は、バラックと言っていました。海の近くの松林のところにたくさんのバラックが立っていて、家を流された「チィやん」も住んでいて、よく遊びにいったものでした。体験談を募集していると聞き、70年ぶりに思い出を書き起こしてみました。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(熊野市 山上 容子)
概要 母屋とは別棟のトイレにいたときに地震があった。やっとの思いでいったん母屋に入り、姉の手をつないで表に出ると、「津波くるぞ!高いところへ逃げよ。」という声で、竹やぶを目指して歩き始めた。竹やぶまで登りきった時、下の方でザーッと音がして、田んぼは一面水になった。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(クマノシ ヤマウエ ヨウコ)
概要2 お名前:山上 容子
ご住所:熊野市
発生時にいた場所:南牟婁郡新鹿村
当時の年齢:5才6カ月
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 山上 容子
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県熊野市新鹿
コンテンツの撮影場所
タグID 新鹿,津波,竹やぶ,昭和19年(1944) 東南海地震,熊野市
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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