昭和16年12月8日に大東亜戦争が始まった。
昭和19年、当時旧制中学校4年生(満16歳)の私は、4月から翌年3月まで一年間を通しての勤労学生動員となり、毎日名鉄電車の瀬戸線で、瀬戸市と名古屋市の丁度中間の東春日井郡守山町大森(現名古屋市守山区大森)から動員先に指定された名古屋市北区の軍需工場(大隈鉄工所上飯田工場)へ通学ならぬ通勤をした。国民総動員令が発せられ、中学校高学年(3年生以上)は暢気に学校に通って勉強なんかしている時ではないとされた時代だった。因みに1年下級の3年生は、名古屋市電の運転手が人手不足となったために市電の運転手に動員された。車掌には女学生が当てられ、私たちはこの方がずっとやりたかったが、思うようにはならず、3年生が羨ましくてならなかった。
昭和19年といえば、7月9日サイパン島の日本軍が全員玉砕して、島は米軍の手に落ち、その後米軍の大型爆撃機B29が頻繁に我が国の上空に偵察に来るようになった。それは1万メートルの上空から1機だけで悠々と侵入し、せいぜい5,6千メートルしか届かない高射砲弾や、迎え撃つ戦闘機も殆ど無い我が方を嘲るように、青空に銀色の機体を輝かせ長い飛行機雲を描きながら偵察を終えて飛び去った。それはその後のB29の編隊での爆弾、焼夷弾によるじゅうたん(絨毯)爆撃(都市部に絨毯を敷きつめたように隈なく焼き尽くす、あるいは破壊し尽くす壮絶な爆撃)のための偵察飛行だったのである。最初は夜間の来襲であったが、暫くすると真昼でも毎日のように来襲するようになった。その都度空襲警報のサイレンが鳴り、住民は防空壕への避難を繰り返す毎日となった。サイパン島はまさに日本全土に空襲が可能となる米軍にとっては最も欲しかった、そして日本にとっては絶対に死守しなければならない重要な島だったのである。
毎日のように来襲する米軍機に防空壕への避難を繰り返す折しも、昭和19年12月7日午後1時35分「昭和東南海地震」が発生した。
この日私は昼食後の作業として、今後始まるであろう爆撃に備えて、工場のガラス窓の爆風対策のため飛散防止の紙を貼る作業をしていた。私が梯子のてっぺんで紙を張る役、途中に下で糊を塗った紙を中継する学友が居るという体制だった。
突然、梯子が揺れ始めたので、最初は中継の友人がいたずらをして揺すっているのかと思ったが、すぐ激しい揺れになり工場内のあちこちに積んであった鋳物などの材料が大きな音を立てて崩れだし、「地震だ!」「逃げろ!」などの人声と崩れる金属の音で工員たちは一斉に外へ逃げ出した。
一人残った私は、梯子が倒れそうなので天井の鋼材に必死にしがみついていたが、一瞬揺れが治まったので梯子から飛び下り、誰も居なくなった工場内の崩れた材料などを飛び越えて通り抜け、激しい横揺れにヨタヨタとしながら運動場へ必死に走った。矢田川の堤防の外側の運動場には、もう大勢の工員や学徒が腰が抜けたようになって地面に這いつくばっていた。とても立っていられないのである。母なる大地が揺れている。工場の建物が右に左にゆらゆらと揺れるのを見て、もう地球の最後が来たのかと不安を感じたのは私だけでは無かっただろう。地面があちらこちらで割れて、砂と一緒に地下水が噴き出す。強い揺れは何分続いただろうか・・・兎に角怖かった。
やがて揺れが治まり各々の持ち場に戻ったが、工場の中のコンクリートの床は割れて、デコボコになり、水平に設置されていた旋盤やフライス盤、研磨盤の機械は床の亀裂で多くが傾き、直ぐには使えない状態となってしまった。
いったいこの地震の震源は何処なのか、自分たちが見た以外に他所ではどのくらいの被害が有ったのかなどは、言論統制の厳しい戦時下であるため全く報道されなかった。ただ終業後に帰宅するため名鉄瀬戸線の大曽根駅に着いたら、電車は全線不通でいつ復旧するかも不明、私は大森の自宅まで約10kmを歩いて帰ったが、一緒に歩いた瀬戸市から通っていた学友達は気の毒なことにさらに10km余を歩いて帰宅したのである。
家は無事だった。名古屋の東北部は地盤が固かったので被害は少なかったが、報道はされなくてもその後追々噂話のように情報が伝わり、大きな被害の情況が伝わって来た。海に近い半田市では地盤が弱く、半田高等女学校の学生が勤労奉仕をしていたレンガ造りの工場が崩れ、多くの女生徒が圧死したということも後で知った。
余震は長く続き、絶え間ない空襲警報と余震で、私の家の近隣の人達の中には、家の中では怖くて眠れないから毎晩防空壕で眠るという人が居たようである。
戦後になって少ない資料の中から三重県や和歌山県での津波の被害が有ったことも知ることができた。

次世代に伝えたいこと
当時小学校5年生の国語教科書には「稲むら(稲叢)の火」という文章があった。それは1854年に発生した安政東南海地震で、紀伊国広村(現和歌山県有田郡広川村)で実際にあったことが教材として取り上げられていたものである。丁度村人がお祭りに浮かれていたさなか、突然発生した大地震が治まってそのまま続いて夜祭りに移るときだった。庄屋の浜口儀兵衛が海を見ると、引き潮でもないのに海水がどんどん沖の方へ引くのを見て、「これは大変だ、津波の予兆だ、直ぐ村人に報せなければ・・・」と思い、とっさに自分の田圃に積み重ねてあった稲藁に次々と火を付けた。村人は赤々と燃える火に気付き、「庄屋さんの家が燃えている」とお祭りを止めて、消火のため皆で高台の庄屋の家に向かった。その直後大きな津波が村を襲い、間一髪で村人の多くが救われたという物語である。私たちはこれを読んで海底を震源とする地震の場合には津波が起きることが多い、地震の後で海水が急に沖に引いたときには、必ず大きな津波が襲ってくることを子ども心に知った。この教科書は、戦後すっかり改訂されて「稲むらの火」も消え去った。
インドネシアの津波では人々はそれを知らず、引き潮で干上がった海岸で我先に魚をとり合ったために、その後来襲した津波で多くの人々が逃げ遅れて大惨事になった。
地震の際は各自の判断で行動しなければならないと思う。
教育はとても大切である。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(四日市市 臼井 達也)
概要 工場のガラス窓の爆風対策のための飛散防止の紙を貼る作業をしている時にいすが揺れ始め、すぐに激しい揺れになり工場内のあちこちに積んであった鋳物などの材料が大きな音を立てて崩れだし、「地震だ!」「逃げろ!」と言って、工員たちは一斉に外へ逃げ出した。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(ヨッカイチシ ウスイ タツヤ)
概要2 お名前:臼井 達也
ご住所:四日市市
発生時にいた場所:大隈鉄工所上飯田工場(名古屋市北区)
当時の年齢:16歳
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 臼井 達也
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 愛知県名古屋市北区大曽根
コンテンツの撮影場所
タグID 大隈鉄工所上飯田工場,名古屋市北区,昭和19年(1944) 東南海地震
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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