昭和19年12月7日午後1時35分
私は小学校2年生で授業を受けている時でした。塩浜小学校は2階建てで、1,2年生の校舎は1階にありました。
突然何事が起ったかのような大きな揺れが始まりました。
私は先生の指示を受ける前にとっさに一目散で外へ逃げ出しました。他の人を気遣う余裕もありませんでした。
運動場へ出ると地面が割れていました。家の近くの道路では地下水が噴き出しているところもありました。
不安の中、揺れる大地に座りながらあたりを見ていると海軍燃料廠の近くに高くそびえる石原産業の煙突が見えました。
「あぁぁぁ、あぁぁぁ、落ってく、落ってく」と言いながら、ゆっくり、ゆっくりと東洋一の煙突が崩れていくのを見ていました。
その後、授業は中止になり、町別で集団下校しました。帰宅すると、母が家の中を片付けている最中でした。
家の障子は倒れ、物が落ちていました。
当時は戦争中で、家にはテレビ、ラジオ、冷蔵庫、アスファルトもなくガラスを使ったものもない質素な生活をしていたため、東日本大震災のように物が散乱していたという印象はありません。幸いなことに家は無事でタンスも倒れずに残っていた。
その後も余震が1週間くらい続きました。
昼間は逃げることができるので家の中にいることはできたのですが、夜が怖く家では寝ていられないため近所にある防火水槽の上にざら板(すのこ)と布団を引きそこで寝ていました。防空壕もあったのですが、湿気が多く眠れないので・・・
戦争中は、艦砲射撃を防ぐために防空頭巾の上に、重たい綿の布団をかぶって逃げていました。
次世代に伝えたいことは・・・
地震の時は、バラバラでもいいから「逃げることが大事」
地震体験、戦争体験も含めた日本の伝統文化や生活習慣 (良いこと、怖いこと) を語り伝えていく必要がある。その中にいろいろなつながりが出てくると思う。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(四日市市 石田 静代)
概要 授業中、突然大きな揺れが始まった。先生の指示を受ける前に一目散で外へ逃げた。運動場へ出ると、地面が割れ地下水が噴き出していた。
コンビナートに高くそびえる石原産業の煙突が崩れていくのが見えた。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(ヨッカイチシ イシダ シズヨ)
概要2 お名前:石田 静代
ご住所:四日市市
発生時にいた場所:塩浜小学校
当時の年齢:
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 石田 静代
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県四日市市塩浜町
コンテンツの撮影場所
タグID 塩浜小学校,石原産業,四日市市,昭和19年(1944) 東南海地震
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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