私は当時、津中学校(現津高校)4年生で戦時学徒動員により、学業を中断し近鉄江戸橋駅の西にあった三菱航空機津工場(岸和田紡績の後)で本土に襲来する米軍B29爆撃機の迎撃戦闘機「雷電」の主翼の組立工をして居ました。
たまたま、この日は登校日で学校からの帰路、近鉄津新町駅のプラットホームで中川駅への電車を待っていました。空は鉛色の曇天で12月初旬とは云え底冷えのする寒い日でした。午後1時何分か突然「ドドー」と云う地鳴りと南東の空に低く弱い閃光を伴い乍ら、プラットホームがまるで荒波に揉まれる船の様に揺れだし思わずその場に座り込みました。これはここに居ては危険だと直感し、這うようにしてホームを降り東側の線路を越え田んぼ(建物は無し)に伏せました。揺れは強弱の波を繰り返しながら3,4分ほど續きました。駅周辺は殆ど木造建築で、もう倒れるか、もう倒れるかと思えるほど「ギシギシ」と音を立てながら左右に大きく揺れ、屋根から灰色の土挨を揚げ、軒瓦が落下する家もあり、家の前にある防火水槽から多量の水が溢れだして居ました。然し、案じていた建物の倒壊や火災、人への被害は揺れが横方向であったことや昼間であったことが幸いし私の周辺では見ませんでした。津で唯一のビルであった岩田橋北詰の百五銀行は昔の津城の外堀の埋め立て地で多少傾いたと聞きました。
暫くすると上り電車の乗務員が「運転できなくなってきた」と云いながら乗客を連れて駅へ歩いてきました。私は止む無く線路を徒歩で帰宅することになりましたが、レールは各所で大きく湾曲し、岩田川の鉄橋の前後では枕木を付けたままのレールが30~50cm位浮き揚がっていて、橋から南へ300m位の所でローカル列車が脱線せずに立往生しており、線路敷は大変歩き辛く、雲出川の鉄橋は恐怖を覚え乍ら渡り終え2時間近くかかってやっと家に到着しました。駅からの道路や川の堤防では10~30cm位の地割れが方々で有り、川が近く地盤の弱い私の集落では幸い建物の倒壊は見られませんでしたが、自宅は東南方向へ少し傾斜しました。近くの神社の鳥居の上部が落下したり、大きな灯篭や墓などの石造物は殆どが倒壊し当地でもかなりの損害が出ました。
その後、大小の余震が当分續き、大きなものはやはり地鳴りと時には閃光を伴い、時期的には夏よりも寒い冬に多く発生し、夜は冷たい屋外に裸足で二三度程逃げた記憶がありますが本震以上のものは有りませんでした。
勤務していた工場は、建物は倒壊しませんでしたが(名古屋大江工場は倒壊)組立設備が大きな損害を受け生産が完全に止まることとなり、大きく担っていた中部地方の航空機の生産が完全にストップ、日本の敗戦を早める一因となったようです。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(松阪市 西口 一巳)
概要 津中学校(現津高校)からの帰路、近鉄津新町駅のプラットホームで列車を待っているとき、突然東南方に稲妻のような閃光が走り「ドドー」と鳴る地響きがしてきたと思うや、立っていたホームがまるで荒波に揉まれる船の様に揺れだし思わずその場に座り込んだ。車両が走れなくなったと乗務員に言われ、線路を徒歩で歩いて、家まで2時間近くかけて帰った。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(マツザカシ ニシグチ カズミ)
概要2 お名前:西口 一巳
ご住所:松阪市
発生時にいた場所:津市、近鉄津新町駅
当時の年齢:15歳
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 西口 一巳
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県津市津新町
コンテンツの撮影場所
タグID 津新町駅,津市,昭和19年(1944) 東南海地震
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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