あれは5年生の12月であった。教室は式場と兼用になっていた昇降口に近い場所でありました。午後の1限目習字の時間が始まって間もなくであったと思う。グラグラッと大きな音と一緒になって教室全体が激しく揺れ出した。 先生が最初に地震だと叫んだ。仲間も口々に地震だとわめいた。初めての体験である。

私は一瞬立ち上がったままキョトンとしていた。その時見えたのが先生の動きである。教壇から窓に向かい飛び出したのはアットの間であった。その早かったこと! この恩師は日本画特に静物の絵が大変上手だったO先生どこにそんな俊敏な行動力がひそんでいたのかかと驚きました。

同級生は窓から出る者はひとりもいなかったと思う。 私は真ん中位で廊下へ出てそのまま大銀杏付近の運動場へ飛び出した。 すぐに目に入ったのが中庭にあった4本柱の相撲場の横揺れで左右に大きく傾きその揺れの時間が大変長くてこれが地震だと実感しました。

おさまってから周囲の仲間を見渡すと半数以上が手に手に墨や筆を持っていたようだ。この印象が間違いなく習字の時間であったとはっきり記憶に残っております。

以後下校まではどうだったか覚えておりませんが、私は同級生と6年生の一部と一緒におりました。

家に向かって帰る途中三軒屋の近くまで来た時、誰かが津波だと叫んだ!!

目を川向井、今の漁港の方へ向けると近くに見えたものは三画波やうねりでもなく、白い屏風が切れ目なく横に並びしかも直角に立った様が目に入ったとき、正に生き物のように頭の上からかぶさってくると本当に恐怖のどん底を覚えました。

その時仲間のとった行動は、3分の2は道を前進残りは後退私は後退のグループにあった。回れ右をしてそれこそ一目散必死になって走った。 振り向かずに走ってのぼった処がOさん宅の山の上でありました。 あァ“助かったと思った。

前進した友達はとっさの機転で地形を知っていてUさん宅の裏山の畑にあがったとのこと。このことは心配しながら迎えに来た父から聞かされた。

この津波で三軒屋周辺の田んぼなどそれは大商様々の死んだ魚が白い腹を見せて無数に浮いていて驚いたことや、この魚は食べられないと村人が言っていたことが残っております。

現在は情報化の時代、警報も逸早く出されますが日常の生活の中で、かかる天災に対処するには備えあれば憂いなしの原点を忘れてはならないと確信します。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(度会郡南伊勢町 磯野 雄一)
概要 あれは5年生の12月であった。教室は式場と兼用になっていた昇降口に近い場所でありました。午後の1限目習字の時間が始まって間もなくであったと思う。グラグラッと大きな音と一緒になって教室全体が激しく揺れ出した。 先生が最初に地震だと叫んだ。仲間も口々に地震だとわめいた。初めての体験である。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(ワタライグンミナミイセチョウ イソノ ユウイチ)
概要2 お名前:磯野 雄一
ご住所:度会郡南伊勢町
発生時にいた場所:穂原小学校
当時の年齢:12歳(小学校5年生)
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 磯野 雄一
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県度会郡南伊勢町内瀬
コンテンツの撮影場所
タグID 穂原小学校,三軒屋,昭和19年(1944) 東南海地震,度会郡 南勢町
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

コンテンツに関する詳細情報