一瞬で海になった輪中、多くの人が波に飲まれる

当時は14歳で、木曽岬中学校の3年生だった。住まいは、伊勢湾と木曽川に面した木曽岬村の上和泉という所で、鍋田川の堤防沿いにあった。2年前に 新築したばかりの中2階の瓦屋根の家で、父や母、兄弟3人、祖母と6人で暮らしていた。伊勢湾台風が来る前の中学生時代は、村はとてものどかで、春になれ ば一面が菜種畑。秋になれば稲穂が見渡す限り広がり、イナゴが飛び交うなか学校に通った。このあたりはほとんどが中2階までの家だった。高い建物にすると 台風のときに危ないということで、当時は2階建てが少なかった。

台風が来たのは土曜日だった。あの日は、朝は天気が 良かったと思う。土曜日の昼に中学校から帰るころは、少し小雨が降っていたのではないか。明日日曜日に桑名、いなべの桑員地区の中学校の陸上大会があるの で、ユニホームやゼッケン、スパイクをもらい、明日は雨が降ると試合がないなあと、友達と話しながら帰った覚えがある。当日、学校から台風についての話が あったかどうかは、記憶にない。

家に帰ると、父や母は台風に備えて家のまわりをヨシズで囲っていた。私は完成してい なかった夏休みの宿題の工作を納屋で作っていたが、だんだん雨が強くなってきたのでやめた。夕方4時くらいのテレビで天気予報をやっていて、紀伊半島のは るか遠方に台風の位置があり、台風が来なきゃいいなあと友達と話し、見ていたテレビの画面が今でも目に映っている。

家 で夕飯を食べた後くらいからだんだん台風が近づいてきて、雨風が強くなってきた。とにかく雨、風、雷がすごく、ひどくなってきて怖いなあと思った。それか ら7時くらいに父や母が家のまわりを見回り、玄関や勝手口を守っていた。建てたばかりの家がしなり、雨戸やガラスが外れそうなくらいで、父が私を呼び、入 れたばかりの畳を雨戸沿いに積み上げて、風で破られてしまうのを防いだ。

父を手伝い自分の持ち場である玄関に帰ろう としたら、生暖かい水が土台のすき間からざあっと流れてきた。堤防が切れた、逃げよと父から言われ、すぐさま自分の部屋まで、学生服とかばんを取りに行っ た。母はまだ小さかった妹を抱きかかえていた。小学2年生だった弟が、どこにいたのかは記憶にない。裏の勝手口から逃げようとしていったん外に出たが、流 木やまわりの木が倒れていて、2、3メートルの所にある堤防へ上がることができず、戻ろうと思った時には立ち泳ぎをしていた。勝手口から家の中に戻ると、 父は早く逃げなきゃいけないと言って、祖母を引っ張ろうとしていたが、祖母は柱につかまり、裏へ逃げたらだめだ、上へあがれと言った。祖母の言うままに壁 づたいに泳いで階段まで行き、2階へ上がって家族全員の無事を確認した。この間、水が流れてきてから1分経つか経たないかだった。直後、階段の落ちる音が した。もう2、3分遅かったら、私の家族も誰かが犠牲になっていたと思う。

2階に家族そろって逃げたが、そのうち波 が荒くなって1階の天井を打ちつけるようになり、危なくなってきたのでもう一段高い2階の座敷のほうに移った。水が2階に上がるまでに数分もなかった。船 に乗って揺られているような感じで、家も流されるのではないかと思った。私たちは外へ出ず、家の中にいて逃げ延びることができた。万が一のときには、横へ の移動ではなく、垂直の移動のほうが助かる可能性が高い。輪中というのは、流れる水との戦いから生まれた知恵だが、洪水と違ってエネルギーも水量も大きい 高潮や津波に対しては生かされない。一瞬にして水が入り、堤防で囲まれているため水位がすぐに上がってしまい危ない。今になってみると、お年寄りの知恵の ほうが勝る。先人の知恵は確かだと、教訓として残っている。こうした知恵は、地域の人たちが長年にわたり培ってきたものだと思う。

よ うやく夜が明け、堤防も大丈夫だったので、なんとか外へ出ることができ安堵した。父と大事な物を家から運び出そうとしていたら、中学校の校長先生が桑名か ら自転車に乗って来て、大粒の涙を流しながら、子どもたちが死んでしまった、もう二度とこの村には住めないなあと話していたことが、一つ印象に残ってい る。また、30代くらいの女性が、乱れた浴衣のまま夢遊病者のようにとぼとぼ歩いており、聞くと長島温泉のある長島町の松蔭の方から流され、家族を探して いたようだった。あのあたりは、隣町まで流された人たちがずいぶんいた。

台風の翌日は、周りは泥の海で流木やがれき の山だった。新聞には、死の海木曽岬村と書かれたという。村外から救援に来た人たちは、押し流された奥の方からやってくる。木曽岬へ入った人たちは、見渡 す限りの流木と死体が浮いているのを見て、死の海と言ったんだと思う。我に返って村の姿を見た時に、もう住めないとみんなが思った。ほとんどの人が、そし て友達も亡くなってしまったなあというのが、翌日の記憶だ。それでも、流木を燃やして炊事をし食事も取ることができたので、私たちの地区はまだ良かった。 台風の翌日も、引き潮の時で玄関先まで、満潮の時で家の敷居くらいの高さまで水が来ていた。

陸上大会に選手として出 る予定だった友達の1人が、木曽岬村の最南端の地区に住んでいた。彼は間違いなく死んだだろうと思っていたが、早くから危険を感じ、排水機場の所の松につ かまり、ものすごい雨と風のなか、朝までそこにいて助かっている。もう1人の友達は、海岸から1キロくらい中に入ったところの村の集落に住んでいたが、家 の中に水が入り、鴨居につかまっていた。家が倒れると渦を巻く。その渦に巻き込まれてしまい、もう駄目だと思った時に体にイチジクの木が当たり、思いっき り踏んだ。跳ねて渦から飛び出て、うまく上がることができた。そこに流木が当たり、しがみついて流された。早い段階で流されているからまだ水が浅く、流れ 着いた先で助かった。5分、10分後ではもう水位が高い。そこから流されて助かっても、風が強いし波も高い。流木もあって、なかなか岸へたどり着けず、波 に飲まれて多くの人が亡くなっている。

1週間くらいして、お年寄り、母親と赤ちゃん、中学生以下の子どもたちが集団 避難をすることになり、避難先の鈴鹿市までヘリコプターと船でピストン輸送された。私たちは白子の港まで船で行き、昔の海軍航空基地で使われていた飛行機 の広い格納庫があり、木曽岬村と長島町の人たちはみんなそこに入り、畳を敷いて避難生活が始まった。それから木曽岬の小中学生たちは、解体する予定で空き 家になっていた逓信病院の看護婦の寮で集団生活を送り、勉強を一緒にすることになった。今になって思えば、避難先での生活は、私たちにとって貴重な経験に なった。先生が少なかったから中学3年生が役割を分担して、いろんな手伝いをした思い出がある。ここで私たちは2ヶ月半くらい避難生活をした。

決壊した堤防を復旧し、村全体から排水して水は引いた。排水が完了したのは11月中ごろだったと思う。堤防に囲まれた1つの島のような輪中は、一瞬にして海になってしまったので、どこの地区が早く水が引いた、ということはなかった。

災 害は忘れたころにやってくると言うが、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災など、傷みが消えていないうちに大災害が起きている。東日本で大地 震が起きた時、被災した人たちは何が一番欲しかったか。正しい情報である。情報があれば自分で判断し、対応することができる。屋外にいた人たちは自分の目 や肌で感じて、これは大変なことが起きるということで、行動を起こし避難をした。でも助かるか、助からないかは、行政ではどうしようもない限界がある。逃 げられる人は、助かった人だ。今からでも家族や友達、職場でも防災について話し合ってほしいと繰り返し言っている。

伊 勢湾台風の時には、全国の人からたくさんの物資や教材などを送ってもらい、手紙もいただいて励まされた。人によって助けられているのだと思った。私たちの 地区でも一家全滅に遭われた方々がいる。あれだけ残酷な、悲惨な生き地獄の中で、お互いが助け合って、立ち上がることができる。人間ってすごいなあと思っ た。生々しい体験をされた人たちが随分いるし、流されて助かった人、流れ着いたけど亡くなった人もいる。この体験を教訓として、これからの避難行動などに 生かしてもらいたい。

 

タイトル 昭和34年伊勢湾台風被災証言(木曽岬町 加藤 隆)
概要 午後7時過ぎ頃、内側から風で雨戸が破られるのを家族で防いでいた。そして、自分の持ち場であった玄関へ行き、下履きを履こうとしたところ、生暖かい水が流れ込んできた。その時、父が「堤防が切れた。逃げろ」といったので、自分の部屋に学生服と鞄を取りに行き、畳が浮き始める中、裏口から逃げようと外へ出たところすでに流木と水が来ており、堤防まで数mにもかかわらず、たどり着かなかった。時間にして一分程度だったと思う。あきらめて家に戻ったときにはすでに立ち泳ぎであった。
タイトル2 ショウワ34ネンイセワンタイフウヒサイショウゲン(キソサキチョウ カトウ タカシ)
概要2 お名前:加藤 隆
性別:男性
年齢(生年):71歳(2016年2月16日現在)
現住所:非公開
被災時のお住まい:木曽岬村和泉378(上和泉)
被災時の職業・学校など:木曽岬村立中学校3年生(当時14歳)
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 三重県・三重大学 みえ防災・減災センター
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県桑名郡木曽岬町和泉378
コンテンツの撮影場所 三重県桑名郡木曽岬町西対海地
タグID 木曽岬村立中学校,昭和34年(1959) 伊勢湾台風,桑名郡 木曽岬町
コンテンツID 伊勢湾台風体験談・証言

動画に関する詳細情報