当時、私は旧員弁郡東藤原村宇石川にあった東藤原小学校の4年生でした。

地震が起こった昭和19年頃は、大東亜戦争の末期でもあり時代背景的にも大変な時代でした。その日は、小学校にて下校する前の掃除の時間中でした。窓ガラスを皆が拭いていた時、ぐらぐらっと少し揺れてから「ドーン」という音と共に下から突き上げるような地震でした。その一発の音と共に、窓ガラスが割れ、当時は木造校舎ですので木枠や木材等が落ちてきました。一瞬の出来事で、何が起こったのかわかりませんでしたが、ガラス等で負傷している生徒もたくさんいてその後大変な地震が起きたと感じました。しかし、当時は多くの男性教諭は戦争に行き、学校には女性教諭が殆どで、ケガの手当ても家に帰ってからするといった感じです。大地震にもかかわらず、当時は早く言うなら“ほったらかし”の状態の様でした。戦争も架禍に入り地震どころではなく、世間のニュースの話題にはならなかった気がします。現在なら東日本大震災同様、事細かに世間の話題になったと思いますが、時代背景の違いでそうもいかなかった訳です。

東南海地震は大変な地震でありましたが、それ以上に戦争の影響が大きく当時の生活の苦しさや幼少時の出来事等いろいろと地震と共に思い出されます。

又、当時は一切「教育・勉強」はしておらず、昭和19年は大人は運搬作業、女子は家で竹やり訓練、子供たちは生活の為、皆学校で授業は受けずさつまいも作り等の作業の毎日でした。一番大きい芋を掘った班が一等賞となりました。そのような時代ですから、地震に対する備えや教育など、到底受けておらず、地震でケガをしても皆自分の家で手当てをしたものです。その手当てといっても薬草です。ヨモギ、アロエ、ゲンノシタ、ドクダミ等で自己流で何日か、かかって治しました。大きい切り傷等、負傷した人は今でも傷跡が残っている同級生もいます。

防災・減災を考える中で先人の知恵というと大げさですが薬草など身近なものでまかなえる“家庭でできる手当て”等も知っておくといざという時少しは役に立つかと思います。

地震に対する備えなどは、教訓として伝えなければいけないと思いますが、あの苦しい戦争体験者としても何か後世に伝えていければと思います。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(いなべ市 樋口 正美)
概要 小学校での掃除中、窓ガラスを皆が拭いていたとき、ぐらぐらっと少し揺れてから、ドーンという音と共にした柄突き上げるような地震だった。窓ガラスが割れ、木造校舎の木枠や木材等が落ちてきて、ガラス等で負傷している生徒も多かった。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(イナベシ ヒグチ マサミ)
概要2 お名前:樋口 正美
ご住所:いなべ市
発生時にいた場所:旧・員弁郡東藤原石川東藤原小学校内
当時の年齢:10歳
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 樋口 正美
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県いなべ市東藤原
コンテンツの撮影場所
タグID 東藤原小学校,員弁郡 員弁町
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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