災害体験談・証言手記
昭和19年東南海地震 体験手記(福島市 関 寛さん)
前略。平成26年12月5日NHK放送で東南海地震の事が放送され、東大の先生がお話されるのを見て、70年前の事を思い出しました。さらに12月7日の福島民報新聞の「隠された震災から70年東南海地震でシンポジウム」という見出しに、当時にフィードバックしました。
その時わたしは一志郡香良洲町にあった三重海軍航空隊の一員でした。その日は、練兵場で陸線の訓練中でした。午後1時30分~40分ゴーゴーと音がして、はるか南の方から黒い雲がモウーとあがり、火事かと思っていましたらグラグラと立っていられないほどの揺れが来ました。「地震だ」と騒ぎ始め訓練中止の号令がかかり、「各人安全な場所に散れ」と言われて練兵場に腰をおろしました。その内、また強く揺れて来て、地面が割れ始め、「割れ目に足を取られるな」と言われ、銃を杖にして立ち上がりました。割れ目から水が吹きでてきたので、大変な状況だと、一同海岸にあった松林の方に集まり、松の木につかまっていました。
「津波が来ると危ない」と私が言うと、知らない人ばかりでした。最初に見た黒い雲はつぶれた家のすすが見えたものだと後でわかりました。兵舎も幾つかつぶれて、2万人近い兵隊は2階の兵舎におり、やっと外に出て来たと言っていました。
次の日、陸軍の工兵隊が電気電話水道管の修理に取り組んでいました。その日から「日誌には書くな」、「外出は当分禁止」、「戦時の影響あるから一応外部との通信を禁じる」とかん口令が敷かれました。隊員は一人の怪我人も出ませんでした。それは日頃の訓練のおかげです。公用で外出から戻った人達から噂を聞く事がありました。「尾鷲漁港の舟は津波で全部流された」とか、「名古屋の近くの飛行機製作所の大きな建物が倒れ、中で働いていた学徒動員の女性500人位死亡した」など流言飛語が流れました。
支援物資はありませんでしたが、3年分位の備蓄米はあり、食事することは可能でした。ただ、水はなく、兵隊で井戸を掘り水を確保しました。その間、約1か月程風呂に入れず、衛生面に問題がありました。
タイトル | 昭和19年東南海地震 体験手記(福島市 関 寛) |
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概要 | ゴーゴーと音がして、南の方から黒い雲があがってきたので火事かと思ったらそのうちぐらぐらと立っていられないほど揺れてきたので、地震だとさわぎ訓練中止の号令がかかり、各人安全な場所に散れと言われ練兵所に腰を下ろしていると、また強く揺れてきて地面が割れてきた。 |
タイトル2 | ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(フクシマシ セキ ヒロシ) |
概要2 | お名前:関 寛 ご住所:福島市 発生時にいた場所:香良洲町三重海軍航空隊 当時の年齢:18歳 |
公開レベル | 公開 |
出典 | みえ防災・減災センター |
提供者 | 関 寛 |
提供者公開フラグ | 公開 |
原本の保管場所 | |
コンテンツの取得日時 | 2016年 04月 01日 |
コンテンツの住所 | 三重県津市香良洲町 |
コンテンツの撮影場所 | |
タグID | 三重海軍航空隊,一志郡 香良洲町 |
コンテンツID | 昭和東南海地震体験談・証言(手記) |