地震発生の直前は、国民学校で次の授業の準備中だった。突然立っていられないような大きな縦揺れが始まり、先生の外へ逃げろとの声で逃げ出した。外へ出ると、津波が来るから高台へと声が聞こえ、山の方へ避難した。

問い:地震があった時はどこにいましたか?

教室の中でしたね。

問い:地震が起こる前は何をされてましたか?

ちょうどお昼休みでしたかね。机を片付けるのに舞台から飛び降りた事は覚えているんですけど。

問い:地震の大きさはどれぐらいでしたか?

大きかったけど。。どれぐらいとは。。縦揺れでしたけどね。立っておれなかったくらい。みんな友達の肩につかまって丸くなっていた。そして先生が「外に出ろー」と言うて。それから運動所へ行って、お爺さんが「津波だー」と言うて山に逃げたんですけど。
外へ出て、私らは橋をわたらないといけなかったので。山道なんで石がまくれ込んで。

問い:波は何回ぐらい来ましたか?

山に逃げたんで見てないんです。

問い:どれぐらい走ったか覚えてますか?

十分よりもかかったかな。山から下りてきたらもう学校も無かったからね。戻って来たのは夕方でしたけど。3時間か4時間いたのかな。

問い:学校が無かったと言うのは流されたんですか?

流されて。もうめちゃくちゃやったね。

問い:牧戸さんが運動場から橋を渡って逃げる時橋の様子はどうでしたか?

橋はもうなかったです。

問い:今と当時は違うと思うんですけども、当時は堤防も無かったんですか?

なかったんです。海と対対やった。船を横付けするぐらいですかね。

問い:学校の中が流されたんですかね?建物は残っていたんですか?

建物は残っていました。

問い:学校に次ぎに行くまで、片付けをしたりとかの記憶はありますか?

教室が決まるまで、片付けに行ったね。運動場へ。教室はバラバラになってお寺や診療所も借り教室になってました。

問い:元の生活に戻るまでにどれぐらいかかりましたか?

だいぶかかったよね。

問い:当時は戦時中で今とは状況が違うと思うんですけど、当時だから困った事とか怖かった事はありますか?

飛行機が飛んでくると防空壕へ逃げたりしましたけど。

問い:地震が起きた時の恐怖と戦争の恐怖とどうでしたか?

両方怖かった。

問い:牧戸さんのご家族はどちらで。

うちは、甫母と言うところで、甫母はほとんど被害がなかったかな。

問い:甫母よりも二木島里町が被害が大きかったですか?

学校の辺りが大きかった。流されては無いけど。水に浸かった。

問い:何軒ぐらい浸かりましたか?

何軒ぐらいでしょう?この道ずっと。

問い:学校の様子とか回りの様子はどうでしたか?

皆外に出てたから、会館のおばさんが位牌を取りに戻ったのは覚えていますけど。

問い:大切なものを取りに戻って?

その人は亡くなられましたけど。

問い:また近い将来、30年以内に同じような大きな地震が来ると言われてますけど、逃げる場所等は決められていますか?

はい。高いところ、高台へ逃げようと。今ですと足も不自由で怖いばっかりで。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験談(熊野市 牧戸 郁子)
概要 地震発生の直前は、国民学校で次の授業の準備中だった。突然立っていられないような大きな縦揺れが始まり、先生の外へ逃げろとの声で逃げ出した。外へ出ると、津波が来るから高台へと声が聞こえ、山の方へ避難した。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンダン(クマノシ マキド イクコ)
概要2 お名前:牧戸 郁子
性別:女性
年齢(生年):
現住所:熊野市二木里町
被災時のお住まい:熊野市二木里町
被災時の職業・学校など:国民学校
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 三重県・三重大学 みえ防災・減災センター
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2018年 02月 01日
コンテンツの住所 三重県熊野市二木里町
コンテンツの撮影場所 三重県熊野市二木里町
タグID 国民学校,昭和19年(1944) 東南海地震,熊野市
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(映像)

動画に関する詳細情報