地震発生の直前は、国民学校で次の授業の準備中だった。突然、大きな縦揺れが始まり、先生の外へ逃げろとの声で逃げ出した。さらに、高台へ避難するため橋を渡った。その時に見た川底は、温泉が湧いているように黒くざわついていた。

問い:1944年の昭和東南海地震当時おいくつでいらっしゃいましたか?

10歳か11歳、小学校3年生だから。

問い:地震は何時ぐらいに起きて、その時は何をされていたんでしょうか?

昼ご飯を食べてから一時間目が始まってテストの時間で始まって直ぐに地震が揺すって何もせずに立ちすくんだな。

問い:地震の揺れの大きさとか時間はどうでしたか?

だいぶ長いように思いました。この揺れは止まるのかなあ?と思いました。学校は古くて木造でギシギシ鳴るし、蓋がある机でガタガタ揺すってましたよ。

問い:地震の揺れが止まった時に回りの友達と何かお話しされましたか?

みんな途方に暮れてた、先生が運動場に出ろというので運動場へ出て、青年倶楽部の方で勉強していた人たちが渡って来た橋の下を見たら海の中がザブザブして真黒に濁っていた。そしたら年よりの人たちが「津波がくるぞー」と騒いでいたらしいです。それは自分で覚えがないんですが、奥へ逃げろと言われて逃げた覚えがあるんです。

問い:橋の下を見たら黒くなっていたというのはどんな状態だったんですか?

地震の揺れで海がザブザブしてたよ。ちょうど温泉が出てきたような。

問い:水面の高さなんかはどうでしたか?

そんなのは変わらなかったよ。まだ波が来てなかったから?

問い:一旦運動場に出て「津波だー!」という事で、その後どうされましたか?

奥へ逃げろ、という事で山道を一列になって逃げたんですけどね。15分から20分ぐらいに奥へ逃げたんだと思います。子供の足で。

問い:山に逃げる時はどんな気持ちでしたか?

いやー、怖いというより、どうしたらいいか分からないよ。大きな石もまくれて来てるし、山道向いて。

問い:大きな石というのはかなり大きな石ですか?

うーん、かなり大きいよ。運動場に出た時に山の方からまくれて来た石は家みたいに大きな石やね。川にどっしりと座っていたから「なんと大きな石やー」と思いました。あの頃は建物が無かったから良かったようなものだけど今なら何かあるやろう。

問い:一旦運動場に出てそれから高い所へ避難して、そこの高台にはどれぐらい避難してましたか?

3時間か4時間ぐらいいたんじゃないかな。その間、先生らは山道を通って様子を見に来てくれて「どこそこが流された、とか学校もつぶれていてない」と山に居る時にきいた。

問い:学校が流されたというのは地震が発生してからどれぐらいの時間が経ってからとか聞きましたか?

それは聞いてないけど、山から下りて来た時に運動場は瓦が落ちて蓋してた。そして農協のミカンとかイモとかが混じって運動場が一杯になっていた。何もかもが運動場に流れ込んで来たよう。

問い:高台から下りてきた時に目にした風景、光景というのは学校の運動場以外どんな光景がありますか?

いやー、びっくりしたよ。これはどうなっとのや、家も流れてるんじゃないか?と思った。そこのハナの所まで来た時に家が見えて安心したんだけど。

問い:ご自宅は海のすぐ前にありますよね。水はどうでしたか?

1mぐらい浸かった。道路が無い時になんで海から石を敷き詰めて斜交いに上げて来てるから。今なら嵩が上がって来てるから止まるかもしれないけどね。

問い:建物ですとか人的な被害はどうでしたか?

ここは建物の被害はそうなかった。学校から戻る時に見て来たけどうる覚えだけど2,3軒流されただけじゃないかな?

問い:この辺りは入組んだ海岸線ですが、被害の大きかった所はどこですか?

被害が大きかったのは流れた学校の方やね。人家も流れたしね。

問い:亡くなった方はいましたか?

3人か4人いたと思う。子供だったのではっきり覚えていないけど。

問い:ご自宅がある場所は当時と変わらないですか?

かわらないよ。学校も同じところに建ってるよ。ちょっと、向きは変わっているけどね。もう廃校になってるけど鉄筋で建てた。

問い:その当時、生徒は何人ぐらいいましたか?

300人、400人近くいたんだと思う。

問い:みなさん無事でしたか?

はい、はい。

問い:片山さんのご家族は地震があった際はどちらにいたんですか?

親父は貨物船に乗って九州の方に行っていたのでいなかったけど母親は畑で地震にあって立ってられなかったと言ってましたよ。

問い:お母さんは地震の後にどこかへ避難されたんですか?

畑が山の方で地震にあったので家が心配になって駆け下りて来たらしいよ。

問い:自宅はどんなふうになっていましたか?

水が1mほど浸かったのでここら(床)はダメになったんで上がり戸の所に御座を引いて母親と兄弟と丸くなって一週間ぐらい寝たよ。揺れ直しが後から来るやろ、それで目が何度もが覚めて覗きに出た事があるもの。

問い:余震は何回ぐらい?何日ぐらい続きましたか?

だいぶん続いたと思うけどな?はっきり覚えが無いけど。何回も、何日も。

問い:元の生活に戻るまでどのようにされましたか?

どれぐらいかかったやろう?覚えがないなあ。

問い:心配で下りて来たという事ですが、その時お母さんはどこにいましたか?

母親が下りて来た時はまだ津波が来てなかったので家のモノ(家財)を逃がしたんだと思う。

問い:それから改めて避難したんですか?

「津波がくるぞー」という事で逃げたみたいだけど、それまでは余裕があったらしい。

問い:どれぐらいの余裕があったんですか?

うーん、畑から来る余裕があったんだから。。。

問い:そういう経験を踏まえてですね、家で準備している事とかありますか?

避難袋は用意しているけど、家にいる時にあったらそれを持って逃げれるけど、よそにいる時にあったらそこから高いところに逃げないといけないから避難袋はやくにたたんはなあ。家にいる時なら持っていけるので裏に逃げれるけど。

問い:避難するところは決めていますか?

はい、家の裏へ。裏の高いところに平地があるんでそこに決めてる。50mぐらいの高さがあって市も手すりと階段を付けてくれている。

問い:じゃあとにかく逃げるという?

そうやね。何も持たなくてもとにかく逃げると思ってる。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験談(熊野市 片山 明信)
概要 地震発生の直前は、国民学校で次の授業の準備中だった。突然、大きな縦揺れが始まり、先生の外へ逃げろとの声で逃げ出した。さらに、高台へ避難するため橋を渡った。その時に見た川底は、温泉が湧いているように黒くざわついていた。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンダン(クマノシ カタヤマ アキノブ)
概要2 お名前:片山 明信
性別:男性
年齢(生年):
現住所:熊野市二木里町
被災時のお住まい:熊野市二木里町
被災時の職業・学校など:国民学校
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 三重県・三重大学 みえ防災・減災センター
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2018年 02月 01日
コンテンツの住所 三重県熊野市二木島町
コンテンツの撮影場所 三重県熊野市二木里町
タグID 国民学校,昭和19年(1944) 東南海地震,熊野市
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(映像)

動画に関する詳細情報