真夜中に荒れ狂った台風、翌日は秋晴れの良い天気でした。となりの母屋はわらぶきの屋根が吹っ飛び、大きな穴が空きました。
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私はあとを家族に任せて出勤すべくスクーターで出発。道路脇に倒れた樹木や電柱を避けながら四日市駅に着きました。 |
これから一号線を名古屋方面に向かいます。まず諏訪新道です。飴のように曲がった商店街のアーチです。大きな看板も倒れていました。
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午前8時ごろです。国道の低いところではドロドロの水が浸かっていて走れず手押ししながら進みました。 |
送電線の鉄柱もなぎ倒されています。いったい、風速何メートルぐらいで倒れるのか想像もつきません。 |
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このへんの民家も屋根が吹っ飛んでいたり、また全壊家屋も多く見えました。 |
関西線の線路が物干し場になっていました。 |
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富田浜に打ち上げられた漁船です。 |
飯田病院の病棟です。窓ガラスは一枚もなく、壁も抜かれており、玄関には流木が突き刺さり、子供がその上で遊んでいましたが、入院の方たちはどうされたのかと胸が痛くなりました。
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関西線富田駅です。広い構内に流木の山がいくつも、いくつもできていました。 |
私はこれほど荒れ果てた構内にしばし呆然と立ちましたが、まずファインダーを下り方向へ向けました。なんと電車の床上まで浸水したことがホームに残された流木で分かりました。 |
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名古屋方向を見ますと直線のレールが左へ大きく流され、信号機も倒れています。強風と高潮の猛威をふるった無残な光景です。 |
電車線の電柱は鳥居形で一本立ちより数倍も強いはずが、ここでは将棋倒しのひどい有り様になっていました。 |
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一号線へ出ました。大きな石油タンクが路肩に引っかかっていました。走るトラックも小さく見えるくらい巨大なものです。 |
道路左側の田んぼにはトラックが流されています。 |
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ブタさんも哀れな頓死です。 |
民家のすぐ前まで石油タンクが流されていました。 |
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一号線朝明橋のたもとにある耕地整理記念碑です。盛り土が表れて、むき出しになっていました。 |
町屋橋を渡って桑名に入りました。ここもまだまだ水が引いていません。ここから先の一号線は通行止めのため、山手の方へ大きく迂回することにしました。 |
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午前9時ごろです。益生の益世小学校には早くも自衛隊の救援部隊が勢ぞろいしていました。 |
午前10時過ぎようやく伊勢大橋までたどり着きました。この大橋も通行止めで厳しく止められましたが、なんとか許しを得て渡ることができました。
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渡った途端になんと長良川の堤防が大きく決壊されて長島地内は見渡す限り水没状態となっていました。あまりの酷い光景に私はファインダーを覗くことさえできないほどに。
一般社団法人 中部地域づくり協会 地域づくり技術研究所のサイトで当時の様子を見てみる |
まだ救助を待つ大勢の人々の姿が見えました。 |
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その決壊した場所から船の出入りがあり救助活動が盛んに行われていました。 |
この先進むことができず、近鉄の鉄橋へ近づく事にしました。長島町の全貌です。 |
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鉄橋の入り口付近は電柱がみな倒れ近鉄長島駅はわずかに峰が見える程度で完全に水没していました。これ以上はどちらへも進むことができず私は出勤するのを諦め引き返す事にしました。 |
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台風から12日目です。海部郡一帯は海抜ゼロメートル地帯で水が引かない状態が続いていました。 |
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引き潮の時だけバスが運転されることを知り養老線大垣まわりで蟹江の友人を訪ねる事にしました。 |
蟹江川も大きく決壊しています。 |
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釣り船をうまく操っての水中往来があちらこちらで見受けられました。私も友人宅まで乗せてもらいました。 |
これが友人宅です。一階はなんと筒抜けで満ち潮のときは床上1メートルにもなるそうです。 |
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二階へ上がると私は絶句しました。言葉にならず、親子みんなが元気にいてくれたことが何よりでした。 |
引き潮の時だけ駅前通りが浅瀬となり皆んなが歩けるようになります。 |
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また駅付近の線路は少し高いため人々の往来に欠かせない存在となって利用されていました。 |
満ち潮の時刻が間も無くやってきます。私は船に乗せてもらい1日も早い復旧を祈りながらバスに乗り込みました。 |
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