東南海地震の記憶

昭和19年12月7日、小春日和の暖かな良い日でした。私は六歳、来年は就学という冬の昼下がり、同い年のさとみさん(さとちゃん)と家の前の畑で、シャベルで土いじりをしていました。すると東の方角から、ゴオーという今までに聞いたことのない様なものすごい音がして、地上が揺れ動いてきました。前に建っている伯母の家の倉の屋根瓦が横にビュンビュンと勢いよく飛んで落ちていきました。
六歳の私たちには何が起きたのか分からず、ただぼおっと立っていましたら、家の中から弟をおぶった祖母が、気が狂った様な声で「あつ(厚)よーい!!さとちゃんよーい!!」と飛び出てきました。
そうなのです、私たち二人は畑へ来る前に石垣の側で遊んでいたのです。祖母はその石垣に押しつぶされたのでは、と心配したのでしょう。本当に命拾いをしたのです。私たちの無事を見ると、祖母は小走りに井戸をのぞきに行きました。満々とたたえている井戸の水は、すっかり干上がっていたのです。「井戸水が干上がっている。これは大きな津波が来る証拠や、逃げやないかん」と慌ててきました。台所の水かめもひびが入ったそうです。
しばらくすると、私たちのいる畑へ隣組や近所の人たちが大勢集まってきました。恐ろしかった地震の状況を口々に話し合い、仕事から帰らない家族の事を心配していました。私の家族も、父は戦地へ行って留守で、祖父と母は高浜の先の田んぼへ行っていたのでしょう。津波を避け、どの道を通って来たのか、無事に帰ってきました。途中、萩原栄三郎さんが流されそうになったけど助かったと言っていました。私たちの姿を見ると「良かった、良かった」と喜んでいました。さとみさんもお父さんが迎えに見え、帰っていきました。
祖父は一番に我が家の宝である牛を小屋から出し、綱を引いて私たち女子供を連れ、ごへじ屋という親戚の隠居に厄介になりました。なぶか(地名)の小高い山の上へ登り、伊勢路川の河口、内口(はまぼうの群生地附近)を眺めました。するとどうでしょう、海の水はすっかりなくなり、村島さんの方まで潮はなくなっていました。それからどれだけたったでしょうか、その水が又川上に登り、小屋や木、稲むら、それに牛までが流されていくのを上から見たのを覚えています。赤く濁った濁流があらゆる村を飲み込んで流れていったのでしょう。
その夜は、ごへじ屋さんのご好意で、米のおにぎり(戦争末期で百姓でも米のご飯は食べられない時代でした)が美味しかったのを覚えています。牛も側で飼葉(かいば。牛の餌。わらを細く切ったものにぬかを合わせたもの)を美味しそうに食べていました。
家へ帰って聞いたのですが、久保貴四さんの母堂さんが「稲が流される」と見に行ったばかりに、津波に流されてしまったそうです。私の実家も下坪という所に(今、ハウスミカンのある場所)母が在りまして、堤防が津波で流されたそうです。祖父は病気上がりで、その祖父をかばいながら、母は必死で補修をしたそうです。夫の留守を預かり、女手一つで大変な苦労だったと今でも胸が痛みます。その後、戦争もだんだん激しくなり、地震と戦争が
重なって復興も思うように出来なかったと思います。留守の家族は特に必死だったでしょう。私たち子供も大人の苦労を見て育ちましたから、物の大切さ、人様への感謝の気持ちは知らず知らずに身に付いたのだと思います。
この先、戦争は有ってはなりませんが、地震はいつ起きるか分かりません。経験のない若い世代が多くなってきました。常に備えだけは充分に、被害が最小限ですむようにしたいものです。
私は今でも就寝前には、明日着る衣服は枕元へ置くようにしています。きっとあの恐ろしかった思いが私たちにそれを教えてくれたのだと思います。
1986年(昭和61年) 書 小山 厚

タイトル 昭和19年東南海地震・津波被災に関する手記
概要 昭和19年東南海地震により大きな揺れや津波の被害に見舞われた南伊勢町において、住民の方が書き残した手記を、ご親族の方から提供していただきました。地震発生時の様子や、そこから学ぶべき教訓が記されています。
タイトル2 トウナンカイジシンツナミヒサイニカンスルシュキ
概要2
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 ご親族
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2024年 02月 09日
コンテンツの住所 三重県度会郡南伊勢町地内
コンテンツの撮影場所
タグID 昭和東南海地震体験談・証言(手記),南伊勢町,東南海地震,手記,津波,昭和19年(1944) 東南海地震,度会郡 南勢町
コンテンツID 01-004-000302

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