災害体験談・証言手記
昭和19年東南海地震 体験手記(松阪市 長井 司さん)
家族は5人で、父は河内小学校の教師をしておりました。 木造平屋の校舎の窓ガラスには、紙が縦横に貼られ殆ど外が見えないような状況でした。
地震の発生時は、母は家におり、私は近所の農家で妹(1歳)を乳母車に乗せて子守をしながら遊んで居りました。
突然の地震に何が起きたか判りませんでしたが、数m離れた農家の庭先に居られた叔父さん叔母さん同級生に呼ばれて、乳母車に乗せた妹を路上に残して、庭中央で叔父さん叔母さん同級生の方々に囲われその地震の治まるのを待ちました。
庭先の大きな立木がワサワサ揺れて恐ろしい時間を体験しました。
農家の大きな木造瓦噴きの家は倒れることもなく、屋敷の周囲に1.2m位の石垣は崩れる事も有りませんでした。
激しい地震の揺れが収まった後、私は妹を連れて約50m離れた実家に急いで戻りました。農家の庭、路地(地道)には幼い私達の足がはまる程の地割れが出来ており恐る恐る戻りました。
私の住んでいた木造瓦平屋は無事で母が迎えてくれました。
帰宅後母が先ほどの地震の話をしてくれました、竈で「さつまいも」を煮ていたが、地震に驚き鍋をひっかたげて竈の火を消し「引き戸」を開けて外に出ようとしたが、引き戸が動かず揺れる瞬間に引き戸を少しずつ動かして外に出たと話してくれました、かなり長い時間揺れていたようです。
「津波」が来ると聞き近所の竹藪に家族で避難しました(後で聞いたのですが、河内川は数百m下流までした津波は来なかった、この川は水が伏流し渇いた河川です)
太平洋戦争中で、灯火管制が厳しく中、日は暮れても電気は来ません、激しい余震を恐れて、夜に山裾の知人宅に(約500m上流)家族で避難しました、
余震に怯えながら夜を過ぎしました。
当日父は、隣の神前にある吉津本校に向かいました。
翌朝、神前浦の吉津小学校は無事で有ったが、港に近い家並みは全滅で民家は多く流されたと聞かせられました。
数日後、父は私と兄に将来経験する事が無いだろうと、津波の被災地を自転車で見に連れってくれました。 幸いにも伊勢時川・村山川にかかる橋は健在だったと思います、
神前の人家は、津波で流され倒れた家のタタミが潰れた家屋や流木の上に並べて仮の通路が出来て居ました、港に近い大きな人家の1階部分が流されて2階部分と土蔵がかろうじて残っており凄まじい光景でした。
津波で亡くなった人々の遺体が吉津小学校の校庭にムシロを掛けて置かれており悲惨な光景が脳裏から消えません。 津波の1波が去り、自分の家に戻った人々が波に飲まれたと父が話してくれました。
その後1週間くらいしてから、兵隊さんが河内小学校に駐屯して、神前浦の被災地の復興作業にしばらく通っており、たまたま我が家の1室に、軍の幹部が寝起きをしておりました。 (兵隊さんの部屋のふすまを少し開けて覗くとお菓子をくれて、父によく叱られました)
兵隊さんが、被災地の支援が終わり引き上げる前日に、河内小学校地区の住民に「ぜんざい」を飯盒の蓋で振る舞ってくれた事が、幼い私の記憶に残って居ります。
かなりの間頻繁に、余震があり着のみまま寝ることが多かったと記憶しております。
おわり
タイトル | 昭和19年東南海地震 体験手記(松阪市 長井 司) |
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概要 | 近所の家のそばで1歳の妹をうば車に乗せて子守をして遊んでいたところ突然の地震、大きな立木がワサワサ揺れ、恐ろしい時間を体験した。木造平屋農家や周囲の石垣も崩れることはなかったが、路地には足がはまるほどの地割れができていた。津波が来たと近所の竹やぶに避難したが、実際には数百メートル下流までしか津波は来なかった。 |
タイトル2 | ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(マツザカシ ナガイ ツトム) |
概要2 | お名前:長井 司 ご住所:松阪市 発生時にいた場所:度会郡吉津村河内、(河内小学校に傍、標高9,1m、河口から1.2km位の地点) 当時の年齢:5歳5ヶ月 |
公開レベル | 公開 |
出典 | みえ防災・減災センター |
提供者 | 長井 司 |
提供者公開フラグ | 公開 |
原本の保管場所 | |
コンテンツの取得日時 | 2016年 04月 01日 |
コンテンツの住所 | 三重県度会郡南伊勢町吉津村河内 |
コンテンツの撮影場所 | |
タグID | 吉津村河内,河内小学校,昭和19年(1944) 東南海地震,度会郡 南島町 |
コンテンツID | 昭和東南海地震体験談・証言(手記) |