1.地震発生時
三重県北牟婁郡錦国民学校1年生(現大紀町錦)当時通称港湾(現在の魚市場)で友達と遊んでいた、突然大きな揺れがきた。地面が音をたて、陸揚げされている船が左右に動き、地震と気づき皆家へ帰った。途中地割れしていたり、トロ箱(魚を入れる木製の箱)が散乱しているのを見た。
2.逃げる
3分ほどで家に着いた。母親が待っていて直ぐに国民学校へ逃げた。家の並びに当時漁業会の職員の人が住んでいて、その人が津波が来るから早く逃げるように、大きな声で皆に教えていた。このことが私たちの並びの家から死者が一人も出なかった大きな理由と思われる。裏の通りでは軒並み犠牲者が出ている。今思うとこのような緊急時にはリーダー的な人がいることが大事なことと思われる。逃げる途中で大きな声がしたので後ろをふり向くと、2階建ての屋根より高い波が土煙を上げて迫ってくるのが見えた。その時の恐怖心は今でも残っていて、地震速報があると直ぐ津波が来るのかと、何処の地震でも気になる。地震から津波が来るまでの時間に余裕があったように思った。
3.津波の状況
津波は5~6回来たように思う。学校の校庭で見ていると、もっと大きな波がくると言うので、より高いところまで逃げた。錦湾の入り江の底が見えるほど潮が引き、また押し寄せることを繰り返していた。流れていく屋根の上で助けを求め、手を何度も振る人もいた。それらの連なった家は堤防の付近で見えなくなっていくのが見えた。戦時中のことであり、大きな網を使った漁が出来ないので、多くの人はヨコワ等の一本釣りに沖へ出ていたが、津波の襲来中入り江の中へ入ってきた。父の船も入ってきたが、無事湾外へ逃げて夜中に山越えして帰ってきた。当時港湾工事で作業用の台船が湾内にいたが、その船や漁船が、錨綱が切れ波と共に陸に上がり住宅地をあちこちに流れ、それが家屋を壊した要因の一つといえる。
4.避難生活
私の家は第一波で跡形も無くなった。もっともその家は、基礎は石の上に土台を据えたもので、現在の家のようにコンクリートの基礎ではないから脆いものである。コンクリートの基礎の家でも基礎だけ残っていたものが多かった。避難先は国民学校、家を流された町内会ごとに教室が割り当てられ、共同生活が始まった。私の家は家族が多かったので、そこに半年ほど住んだ。学校の上の山よりに水源地があり、風呂はドラム缶を利用したものだが、早い時期から入れた。津波直後農業会の倉庫にあった塩水に浸かった米を水洗し、当座の食料としたらしい。このような当時の大人たちの行動に今感謝したい。二つ隣の教室に遺体が並べられ、夜便所へ行くのが怖かった。遺体はトロ箱を打ちつけた簡単なものに入れられ、大八車に乗せられ墓地へ埋められた。葬式というものではなかった。私の叔母も亡くなっている。やがて仮設住宅のバラックが建てられ、順次そこへ移っていった。建物は6軒ほどの長屋方式、杉板一枚の屋根、外囲いのもので、プライパシーなんて全く無いもの、製材したそのままで、今でも柱や、杉板に黒い字で九尺六寸、六尺三寸の文字が印字されていたのが目に浮かぶ。間取りは6畳一間に簡単な釜戸、流し、便所は共同であった。その後そのバラックでは狭いので6畳+3畳のバラックへ移った。
5.津波後
残がいの整理が始まり、私たちも手伝いに出た。流れなかった家は解体して、物資の無いことから再利用するため各家ごとに使えるものは保存した。この仕事に出るとおにぎり一個が貰えた。何時からか米軍のカンサイキが空襲に来るようになった。空襲の回数が次第に多くなり、終戦近くには連日やってきた。東日本震災時に友達作戦とかで米国の救助活動が行われ、それは感謝しなければならないが、あのときはアンチフレンドシップとも言うべきもので、空襲の都度バラックから防空壕へ逃げた。私の町でもこの年の7月下旬爆弾で数人の死者がでている。(詳しくは三重の空襲という本にでている)
戦時下援助物資が少ない中、現在の大台町、旧大宮町の人々が援助物資を提供してくれた。当時の布団にそれらの土地の人の住所、名前が縫い付けられていたのを憶えている。このことが、錦が北牟婁郡から度会郡の町と合併し、紀勢町となった大きな理由である。昭和の合併時三重県では錦は紀伊長島との合併が計画されていたが、もし津波が来たら同じ被害にあう海辺の紀伊長島には助けてもらえない。経済圏は紀伊長島だが、あえて山辺の町を選び、県の計画に反対する運動が起こり、現在の町になった。もっとも当時錦、紀伊長島間には道路が無く、幻の国道で人も歩けない程の道のみだった。ただ民間経営の巡航船が通っていた。小さな町なので良かったのは、仮設住宅を建てるとき土地を借りるのにも割合楽に話がつき、着工も早かったのではないかと思われる。
津波後地盤沈下で少しの高潮で陸地に海水が溢れた。そのため各人が土地の嵩上げを行った。勿論援助などない。個人で五百メートルほど離れた山から大八車で土を運び埋め立てた。子供も放課後その手伝いをすることが日課の者もいた。戦後、全国的に食料不足であったが、特にこの津波にあった町は何処も困窮を極め悲惨な生活だった。

タイトル 昭和19年東南海地震 体験手記(津市 糸川 貞之)
概要 港湾(現在の魚市場)で友達と遊んでいるとき、突然大きな揺れがきた。地震と気づき皆家へ帰った。途中地割れしていたり、トロ箱が散乱していた。家に着くと母親が待っていてすぐに国民学校へ逃げた。家の並びに当時漁業会の職員の人が、津波が来るから速く逃げるように、皆に教えていた。このことがわたしたちの並びの家から死者が一人もでなかった大きな理由だと思う。
タイトル2 ショウワ19ネントウナンカイジシン タイケンシュキ(ツシ イトカワ サダユキ)
概要2 お名前:糸川 貞之
ご住所:津市
発生時にいた場所:北牟婁郡錦町
当時の年齢:7歳
公開レベル 公開
出典 みえ防災・減災センター
提供者 糸川 貞之
提供者公開フラグ 公開
原本の保管場所
コンテンツの取得日時 2016年 04月 01日
コンテンツの住所 三重県度会郡大紀町錦
コンテンツの撮影場所
タグID 錦,昭和19年(1944) 東南海地震,度会郡 紀勢町
コンテンツID 昭和東南海地震体験談・証言(手記)

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